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今年はペリーが横浜に来航して日米和親条約を締結して170年目ですが、その条約に深く関わった人物の名前が都筑区の杉山神社の石碑に刻まれていますのでご紹介します。

        大棚・中川杉山神社の石碑文寄稿者の河田迪斎とペリーの話

今年(2024)はペリー提督が安政元年(1854)に横浜に上陸して幕府の応接所(現在の横浜開港資料館の付近)で日米和親条約を締結して170周年に当たるが、幕府の応接係(条約締結責任者)である大学頭林復斎にしたがっ て日米和親条約を起草した河田迪斎(八之助興)の名前が大棚・中川杉山神社の石碑に刻まれている。

この石碑は大棚杉山神社が延喜式に表れる武蔵国44座の一つ(式内社)である根拠を示した内容で栗原恵吉を代表とする大棚村の村民に請われて河田が寄稿したとのことで嘉永5年(1852)に建てられている。恵吉と河田との関係は定かでないが、大棚村鵜目在で学問好きの恵吉が儒家の林家塾頭であった河田に教えを請いに通っていたところから碑文を依頼したものと思われる。

河田迪斎(1806-1859、名は興)は讃岐国に生まれ、江戸に出て昌平黌に学び、幕府儒官林家の塾頭

佐藤一斎の門下となり、一斎の娘を妻として塾頭を継ぐ。上記の通り、ペリーが再来航の際、交渉記録を執るなど林復斎を助けているが、面白いのはペリーが幕府への献上品として持参した蒸気機関車の模型(実物大の1/4だが、30㎞のスピードで走る精巧なもの)を横浜海岸の麦畑にレールを敷いて

試運転をした際、強い好奇心を抱いて屋根にまたがった(小さいので客車には入れない)幕府役人が河田斎その人であり、その光景はペリーの目に強く焼き付いたらしい。(「ペルリ提督日本遠征記」「日本財団 松崎哲」による)

ちなみに上記の石碑の内容は大棚・中川杉山神社が式内社と主張する根拠は薄いし、河田迪斎と大棚村との関係も恵吉を通じたものだけであるが、都筑区内の杉山神社の石碑に名を残した人物(嘉衛5年歳次任子嘉平月 林司家塾都講河田興書と末尾にある)が開国前の横浜の大イベントに深く関わった事実は興味深い。

         ペリーが持参した蒸気機関車模型の記事

     大棚・中川杉山神社石碑