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12月3日「つづき みどりと花のまち巡り⑭」で訪れる心行寺の案内板に関わるおはなし

             徳川秀忠の正室お江(崇源院)の化粧料地

川崎市北部の王禅寺に化粧面谷(けわいめんやと)公園がある。けわとは1595年に京都の伏見城で秀吉の養女として徳川秀忠と婚姻したお江の化粧料地であったことを指しめんは、その事実により年貢が免除されていたことに由来するらしく、近世まで小名(こな)としての地名が残っていた。

お江の化粧料地は都筑郡の王禅寺村、石川村、荏田村、川和村の4村で現在の横浜市の青葉区と都筑区の一部である。お江が死去した際はその村々の村人350人が剃髪して、増上寺と青山で行われた火葬までお棺を担ぐなどの下働きに従事した。その奉仕に報いるため、幕府は年貢の減免や使役の免除の特権を200年以上与えている。

疑問点はその期間の長さである。お江は3代将軍家光の母なので家光死去(1651年)までは特権付与が当然とも思えるが、その後江戸後期に至るまでの長き期間には不作や飢饉なども発生しその特典に対して幕府がメスを入れる機会が何度もあったと思われるのに、なぜそれ程長く続いたのか。

その要因を推理するにあたりまずお断りしておくが、本稿は研究者でも何でもない筆者が単なる物好きの思い込みによる事実誤認の可能性があるので、その点は十分ご留意いただきたい。

私が推理するポイントは化粧料地(領地ではない)の持つ意味である。化粧料とは中世から江戸時代まで父親が嫁ぐ娘に与える持参金または相続財産であり、家康が養女として加藤清正の室となる清浄院に与えた1万石や、実子の督姫が池田輝政に嫁ぐ際に与えた10万石の例がある。清浄院の化粧料は加藤清正改易後も清浄院死去まで設定されており、督姫の化粧料は子息に相続されている。

すなわち、化粧料とは父親からの相続財産として個人に帰属するものである。お江の化粧料地がこの地域に設定されたのは青山忠成などの幕閣の判断と思われるが、その原資はお江の持参金の可能性が高い。

となればお江は秀吉の養女として江戸に嫁いでいるので、その原資は秀吉から出ていることになるが

お江は秀吉が亡くなる1598年まで伏見城下で生活し、秀吉没後の同年後半に初めて江戸に移っている。

「豊太閤事蹟集」という資料に秀吉死去の直前に側近にいた正室ねねに1万貫文、側室茶々に7千貫文、養女豪(ごう)に7千貫文(約7万石に相当)の遺産を与えるとの記述がある。

紛らわしいことに豪は2歳の時に秀吉夫婦の元に養女に入った前田利家の4女と同名で夫婦に可愛がられていたが、1588年に宇喜田秀家に嫁いでいることや、秀吉晩年の状況(側に上記3名が常在していたことや家康に阿る立場であったこと)から豪は豪姫ではなくお江を指すと思われる。その時代の資料は表記の間違いも多く、また漢字の表記よりも「ごう」という音を重視したことがその理由と思われる。(とは言え豪が豪姫を指さないとも言い切れないので、どなたかお調べ下さい)

上記の特権が200年以上続いた理由に戻ると、お江の化粧料地は徳川幕府のスタート時点から徳川の領地ではなくお江に帰属する財産であったため、扱いが違ったためではないだろうか。

お江の葬儀に関わる貢献の見返りとして関係村に特権を与えた背景には秀忠や家光の意向も反映したであろうが、幕藩体制が整う中で特別扱いが長く許された根拠は領地の区分が当初から違っていたことが考えられる。

因みにお江没後の当該地は幕府の天領や旗本の領地に属することなく、お江が眠る増上寺の御霊や料や増上寺の本領となり、お江の菩提に資する費用に充当されている。